詞の音響分析

【詞の音響分析】



アジアの純真

作詞 井上陽水
作曲 奥田民生
歌 PUFFY

【A】
北京 ベルリン ダブリン リベリア
束になって 輪になって
イラン アフガン 聴かせて バラライカ

【A'】
美人 アリラン ガムラン ラザニア
マウスだって キーになって
気分 イレブン アクセス 試そうか

【B】
開けドア 今はもう 流れでたら アジア

【C】
白のパンダを どれでも 全部 並べて
ピュアなハートが 夜空で 弾け飛びそうに
輝いている 火花のように

【A''】
火山 マゼラン シャンハイ マラリア
夜になって 熱が出て
多分 ホンコン 瞬く 熱帯夜

【B'】
開けドア 涙 流れても 溢れ出ても アジア

【C'】
地図の黄河に 星座を 全部 浮かべて
ピュアなハートが 誰かに めぐり会えそうに
流されて行く 未来の方へ

【C''】
白のパンダを どれでも 全部 並べて
ピュアなハートが 世界を飾り付けそうに 輝いている
愛する限り 瞬いている

今 アクセス ラブ





【作詞におけるボーカルの諸問題】

ポピュラー音楽の歌詞に私たちが出会うとき、それは誰が作ったものであるのかというのが、非常に曖昧なまま議論しなければならない。私たちが良い歌詞とそうでない歌詞について話すときに、それは真に誰によって創作されたものであるかは本人にも意識されないままに語られることになる。しかし歌詞カードをみてそこに作詞家の名前が掲載されているのをみたときには、それがこの人物によるものであるということを知って、この人物ーー例えばA氏ーーがこの素晴らしい歌詞を書き、それによって私たちは感動したのだ、ということを知るのである。
しかしこれは壮大な誤解である。詞をつくるのは作詞家であるというのは、詞というものを単なる歌詞カード上の文字に還元する作業でしかない。なぜなら、作詞家が書いた《文字》は、作曲家のメロディーによってアクセントが歪められ、イントネーションは変化し、リズム、つまり音符を当てはめる作業によってモーラや音節を切り刻むし、それがボーカルによって歌われたときには、文字や音符では表記の困難な部分、例えば発声や発音によって聴覚的印象は変わり、ナラティブが変化するからである。
作詞家、作曲家、ボーカルというこの三者が、歌詞という領域を囲んで互いの権利を取り合っている、そういう動的な状態を私たちは音楽として聴いているのだ。歌詞は作詞家だけがつくるものではない。
私はここで、歌詞の中に潜んだボーカルの領域について私自身の見解を述べようと思う。歌詞創作における歌い手の諸問題である。
ポピュラー音楽において決してそればかりではないが、ここではより理解しやすいように、読者には《作詞家》と《作詞家》と《ボーカル》がそれぞれ別の人物であると想定してもらいたい(幸いなことに『アジアの純真』においてはこれにあてはまる)。これはただ単にこの三者の領域闘争の図を明確に想像しやすくするための想定であり、この三者が同一人物であった場合(例えばシンガーソングライター)にこの議論自体が無意味になったりするようなものではない。
ボーカルが作詞家がかいた歌詞を旋律にのせて歌う際に、そこに書いてある文字以外のことは歌うことができない。文字という側面からしてみれば歌い手は管理された作詞家であり、その領域を侵すことはできない。しかしそこにおいて侵してはならないのは日本語の意味という認識においての機能という側面においてだけであり、それ以外の部分は歌い手に委任された作詞作業なのである。これは作詞という創出に関する限り「最後に」なされる業であるから、ここで作詞家と作曲家の紡ぎ合わせた言葉が集結し、完了するのである。
例えば、ウィスパーボイスという発声法である。ウィスパーボイスは音声学的に解釈するなら、声帯を振動させない発声法である。日本語にはそれぞれ声帯の振動を伴う発音とそうでない発音があるが、後者は子音にのみ存在し、特に《無声音》という言い方をする。ウィスパーボイスとは、すべての発音を無声音化する作業であり、これは作詞家が意図した日本語の発音とは異なってしまう場合がある。事実、聴音上は全く違う発音である。ウィスパーボイスのもう一つの側面は発声である。まず極端に小さな音量と、複雑な倍音構成である。複雑な倍音構成は旋律を不明確にさせるが、これは歌詞ではなく作曲にかんすることであるのでここでは割愛する。ちなみにこのウィスパーボイスの特徴的な倍音構成は一部の専門家の間で《非整数次倍音》と呼ばれ、《整数次倍音》との心理的な対立が研究されている。
ウィスパーボイスは発声と発音という両側面において、作詞家と作曲家には創出できないボーカル独自の仕事を成している。その点で、これはボーカルの「作詞」であるといえる。
このウィスパーボイスが、本来の発音とは異なるにも関わらず、作詞家の書いた詞を変化させた、つまり作詞家の領域を侵したといえないのは、音韻論的に解釈できる。
つまり、日本語には阻害音という総称でまとめられた子音以外には有声音と無声音の対立関係が存在しないからである。例えば日本語の母音はすべて有声音であるが、無声音で母音を発音しても、その二つに意味を変化させる違いがない(これを弁別的機能がないという)ので、聴音上は印象は違っても、意味は違って認識されないのだ。しかし母音の有声音と無声音の対立があるような言語においては、無声母音は弁別的機能を持つので、意味が変化することになり、その場合のウィスパーボイスは作詞家の領域を侵したといえる。
このように、作詞家や作曲家の領域を侵さない範囲で歌い手に任された作詞作業は、聴き手には決定的な印象を与える。つまりこのボーカルの作詞作業が、作業自体はミクロなものにみえるとしても、聴き手にとってはそれが良い詞かどうかの判断基準になり、さらには歌い手の個性として認識されるのだ。
このようなボーカルの作業、つまり三者の対立関係の中で最後に成される作詞作業のことを、詞の分析において《声体(スティル)(style)》と呼ぶ。これは読み方が同じ「声帯」とは違い、外来語の「スタイル」とも違う。両者を聴覚的に混同しないためにフランス語の「スティル」と呼ぶのが望ましいが、ここでは漢字に内包された意味合いが理解に役立つと期待して漢字で「声体」と表記する(つまり文体に対する声体である)。

私がここでいう声体という用語は、詞学において聴音上重要な役割を果たすが表記が困難であり、事実上歌い手に任せるしかないような曖昧な領域のことである。楽譜は論理的にはすべての旋律を記譜することが可能であるが、それは伝統的に避けられてきたし、二十世紀に入ってすべての音価、微妙な音程を管理しようとする試みも流行したが、結果的には譜面は音楽ではないという事実を再認識させることとなった。同時期に楽譜によって音を管理することを拒否するようなケージのような音楽が、記譜法の歴史の中で依然鮮やかな色味を帯びていることも忘れてはならない。
楽譜は、言語学でいえば音素のように、認識に基づいた記号である。音声学によって聴音上無限に存在する発音を、弁別的機能によってひとまとめにする作業が記譜である。
歌詞、そして旋律によって大まかな作業は決定されるが、その細部は歌い手が選び取る権利がある。発音や発声を意識的または無意識的に選択することで、歌い手は声体を形成するのだ。これは単に「その人らしい歌い方」という程度のものである。声質そのものは変えることは困難であるが、声体を意識的に変化させることはある程度可能である。モノマネは声体模写の芸である(《声帯》模写では決してない)。
声体は主体にとって歌唱のアイデンティティにあたるものである。言語活動においてバルトが示したスティルという用語がそうであるように、詞学におけるスティル(すなわち声体)も、自由に選び取って好きなだけ変化させることはできない。しかし同時に決定的に変化しないものでもない。詞の構造上や旋律の具合によってある程度予想可能なものであるし、曲というものが歌い手にとって一曲ごとに別の人生を生きるようなものだと考えればわかりやすいが、声体は詞や旋律や主体の意識によって常に変化する。しかしもちろん本人の決まったパターンは存在していることにかわりはなく、モノマネ芸人は様々な声体を真似するが、自分自身の声体というものが変化することはない。声質、つまり楽器でいうところの音色は、声体には含まれない。これは大きくは性別や年齢による声質の違いがあるが、まったく本人の意識や曲の構造に関わらず変化することはなく、奏法のひとつとは認められない。
声体に含まれる重要な要素のひとつが発音である。歌詞によって定められるのは音素という弁別的機能に他ならないので、歌い手は歌唱の際に弁別的機能を損なわない程度に発音を選び取る権利がある。英語の[t]の発音は有声音に囲まれると有声化するという同化現象が起こる傾向があるが、歌唱の際に有声化された[r]で発音するか無声音のままの[t]で発音するかは、普段の発話における傾向とは関係なく選び取る権利がある。(例:《shut up》の[t]→[r])
この選び取るという作業は、ほとんどの場合、歌い手の感覚に左右される。それによって意味は変化しないので、別の歌い手が別の発音で歌唱した場合にも、聴覚上それほど違和感はないだろう。ただし印象は違うので、有名な楽曲を別の歌い手がカヴァーしたときに、その発音の違いが違和感となって聴き手に心理的な対立関係を認識させる。声体を似せれば似せるほどモノマネとしての印象が強くなり、声体を全く変えてしまえばオリジナリティあふれるものだという印象になるだろう。しかしどちらも言葉の意味は変わらない。
批評家が今日しなければならないことは、これら無限の声体をいちいち分析することだろう。声体は作詞家がつくる詞ではなく、歌い手がつくる詞なのである。つまり、文字と音楽によって音響機能が(ある程度)決定された本来の意味でいう《歌詞》を分析するこことは別に、歌い手が意識的や無意識的に選択する声体という《歌詞》を、同時に分析しなければならない。歌詞におけるこの二つ目の側面は、聴音音声学がそうであるように、無限のものを相手にする壮大な作業であり、完結は不可能なばかりか、歌い手の数だけ違った分析をしなければならないイタチごっこのようなものであろう。
しかし批評家はそれを分析しなければならない。今日の詞における諸問題の根源がまさにそこにあるからである。
つまり、こういうことだ。歌い手を含むすべての作詞家は、「ブリコラージュ」の芸術に他ならないのだ。レヴィ=ストロースによると、「ブリコレ bricoler という動詞は、古くは、球技、玉つき、狩猟、馬術に用いられ、ボールがはねかえるとか、犬が迷うとか、馬が障害物をさけて直線からそれるというように、いずれも非本来的な偶発運動を指した。今日でもやはり、ブリコルール bricoleur(器用人)とは、くろうととはちがって、ありあわせの道具材料を用いて自分の手でものを作る人のことをいう)(『野生の思考』大橋保夫訳 P22)。
作詞家、歌い手は、器用な職人だ。経験的に良い詞とそうでない詞を判断し、理論的には全くなぜそうなるかはわからないままに気持ち良い言葉を選び、歌っているのだ。批評家はこの天才的な素人、器用な野生人の脅威となるような、対抗勢力でなければならない。ブリコラージュの詞を余すところなく分析しつくして、作詞家を挑発しなくてはならない。天才的な素人は、私のような分析者を困らせる無理難題をふっかけるであろう。それは研ぎ澄まされた勘と経験哲学の独自の理論に基づいて華麗になされるのだ。しかし私たちは臆してはならない。丁寧に分析するのだ。これが野生の芸術家にとってどれほど恐ろしいことだろう。しかしこの対立関係は、一時的な、仮の対立であることに読者は気づかなくてはならない。ブリコラージュかそうでないかは、テクストからは判断できないのだ。教養ある作詞家、声体を意識的に論理的に計算し選び取る歌い手が、我々と対峙するとき、この対立はもはや意味がなくなるだろう。真の目的は、この対立が全く無意味になるということなのだ。そのために批評家は挑発的に分析を繰り返し、作詞家を手の中で転がすふりをし続けるのだ。理論は捜索活動において必須ではない。理論を習得した者と無教養の者との作品の間に、違いはないのだ。問題なのは、私が統計学的な根拠もないままに身勝手に「すべての作詞家はブリコラージュ」であると断言し、それがまかり通ってしまうような現状にあるのだ。それをそうでなくさせるには、ちょうど植民地政策の時代に白人が野蛮人を相手に西洋主義的な哲学でもって手篭めにしようとしたように、ひたすら私たちの方法で分析を続けることが重要だ。そして最終的にはこの対立が無意味になるはずなのだ。つまり野蛮人の中から教養ある人が生まれ、西洋哲学者が現地で暮らし始めてから長い年月を経てようやく、西洋主義的哲学も野蛮人の思考も、優劣の判断が不可能であるということが真に理解されるように。
創作の段階で声体という要素が誰に権利があるのかという問題は非常に微妙である。
永六輔は『上を向いて歩こう』のレコーディングのときに坂本九の歌が「うえをむいて」ではなく「ウヘホムフイテ」ときこえ、その歌い方に激怒したという逸話がある。これは声体の権利の問題である。結果的にはこの声体は坂本九のものとなり、大ヒットしたのであるが、永六輔は自分の詞の領域を歌い手に侵略された思いであっただろう。「うえをむいて」という詞が「ウヘホムフイテ」にきこえるとすれば、それはその通りである。しかし結果はそうではない。聴き手にとって坂本九の歌唱は多少の違和感があったにせよ「うえをむいて」ときこえるのだ。音声学的にはこれは母音の有気化である。有気は声帯の振動に先んじて空気を出すものであり、日本語には有気と無気が音素的対立関係にない(通常は無気)ので、同じ一つの音素の異音であるといえる。このような場合、どちらかを選択しても歌詞が変化して聴こえないので、歌い手に選ぶ権利がある。これが声体である。声体について作詞家が口出しすることは可能だが、細かな発音の違いは歌い手に意識されない場合が多く、修正は困難である。しかし歌い手がその発音の違いを明確に意識していた場合、作詞家と歌い手のどちらの希望を優先させるかは微妙な問題である。これは作詞家の意識の問題であり、「作詞」という行為がどの部分までの領域をいっているのかという定義の曖昧さが原因である。多くの場合は作詞家と歌い手の権力関係によって解決される。歌い手の方が権力が上であれば、作詞家は文字に書いていない部分、つまり声体について要求はできるが、強要はできない。

しかしながら、このような分析がボーカル自身にとって有益かそうでないかということは、全く無意味な心配だろう。ボーカルがブリコラージュかそうでないかということは、全く彼らにとって関心の対象にはならないだろう。つまり、私がいま述べたような考察は、分析者という専門家にとって有益であるだけであり、創作者にとって有益かどうかは、本人の意識によるだけであろう。
しかしボーカルにとってこの考察が意識された場合に、それが悪影響であったり無意味であったりという心配も無用なことだ。つまり彼ら次第、ということだろう。
実際、歌い手によってこの理論は不可欠ではないが、利用することは可能である。声体は意識しなければ変化は難しい。それを直感的に成せるのがブリコラージュであるし、そうでなく理論的に生み出す玄人にとっては有益であるだろう。直感という最も速いスピードで創出された歌詞は、声体の分析の手の届かないほどの即効性がある。しかし、適当に繋ぎ合わせた音符が偶然フーガのような曲になることが(論理的にはあり得ても)到底不可能であるように、理論によって生み出さざるを得ないものもある。例えば声体によるサブリミナルをつくろうと思えば、声体の分析から始めなければならない。それがボーカルにとってどれだけ有益であるか、もしくは必須であるかというのは、本人の意識に委ねられるのだ。単に彼ら次第であろう。


【ことばに内包された音楽】

演奏法では、カンタービレ(cantabile)という発想記号がある。これは演奏家に歌唱をイメージさせるような奏法を要求するものである。
私は、坂本九が歌唱する『見上げてごらん夜の星を』の間奏部において、弦楽器の奏でる主旋律が「見上げてごらん夜の星を」と歌っているようにきこえることに非常に不思議に思ったことがある。これはカンタービレという奏法による魔術だろうかとも思ったが、実際は作曲の段階で意図されたものであることが後になって理解した。主旋律と出だしの歌詞のアクセントが完全に一致しているこの曲は、ボーカル不在であってもなお、言葉を呼び起こさせるのだ。
日本で作詞家という言葉が、専門的で威厳のある響きでもって重宝されていた古き良き時代には、作詞家は彼らの生きた証をテクストに刻印させるために、旋律とアクセントを一致させることを非常に重んじていた。これは今日私が《言語詞》と呼んでその対極にある《音声詞》との差異を見出そうとしているものであるが、その真髄に流れるテーマは「聞き取りやすい詞」という風にいえるが、これは取りも直さず「作詞家の権威」の象徴である。
私はポピュラー音楽という業界から離れて教育現場に身を置いた坂田晃一氏とこのようなことを長い時間議論したが、彼は私に、やや批判的に「メロ先が詞を衰退させた」と仰った。
作詞家と作曲家がそれぞれの領域を真面目に守っていた平和な時代には、メロディー先行で詞がつくられる「メロ先」と、詞が先行で作曲される「詞先」という業界用語が存在していた。現在では圧倒的に旋律を先行させる傾向があることで、言葉が持つ豊かなリズムやイントネーションは失われたと彼は言ったのである。
これはちょうどオペラにおけるレチタティーヴォとアリアの対立関係に例えることができる。旋律を度外視した朗唱と、旋律が優先されるアリアが交互に合わさって、オペラという全体を構成している。
この坂田晃一氏の台詞には、私はたった一つの台詞でもって反駁することが可能である。「詞先がメロディーを衰退させた」と。
私たちは、普段の発話行為の中で、様々な点で「カンタービレ」を実践している。日本語のリズムの最小単位である「モーラ」が伝統的に「拍」と呼ばれることは、会話の中にすでに内包された音楽的要素を証明するものだろう。「詞先」という作曲上の方法論は、その内包された音楽要素を損なわないように、ときに過剰にして創り出す再構築に過ぎないだろう。それは作詞家という権威が常に音楽の向こうに見え隠れし、神のような侵すべからざる領域として保存する行為なのだ。

男性中心主義的な西洋文明において、「Ladies and gentlemen」という言い方は何を意味しているだろうか。なぜ男性ではなく女性をあらわす「Ladies」が先行しているのか。これはレディーファーストと呼ばれる紳士の幻想的な遊びに他ならないのか。これは、言葉にすでに内包された音楽性が、そうさせているのだ。これはこのことばを音節(Syllable)とよばれるリズムの最小単位で区切ってみたときに、そのアクセントの位置によって証明される。「.」は音節間の区切りであり、大文字はアクセントをあらわす。

LA.dies and GEN.tle.men

上のことばは明らかに三拍子を刻んでいる。二つの語を入れ替えた場合、

GEN.tle.men and LA.dies

となり、4+2の変拍子になってしまう。この慣用表現の語の並びから私たちがわかるのは、発話においてリズムの複雑化を防ごうとする無意識の作業があらわれているということである。これこそが、発話行為に内包された作詞作業(メロ先)である。複雑な6拍子ではなく3拍子の音楽を奏でるために、語を並び替えるのだ。


【曲について】
さて『アジアの純真』の分析に取り掛かるわけだが、この詞を選んだ理由はあまりない。大学の図書館の譜面棚から無作為に選んだ本の中で私の知っている曲を半ば恣意的に選んだに過ぎないが、それでも、私はどれでもいいと思ってこの楽譜(歌詞)を選んだわけではない。理由は、ひとつには、この歌詞が「意味がわからなかった」からだろう。私はこの曲を知っていて、尚且つその詞の内容をある程度覚えていたが、それが文学的に示しているもの(これをシニフィエとよんでいいかわからないが)が何なのかはわからなかった。私はこの詞に全くナンセンスな香りを感じていただけなのだ。
そしてこの詞を選んでから、私はこの詞が文学的に示すもの(やはりシニフィエと呼んだほうがわかりやすいかもしれない)に関する、様々な憶測がインターネット上に存在していることを知った。
以下にその一例を示す。
これは左側の語(歌詞)がシニフィアンで、対応する右の語がシニフィエ(著者の憶測)であると考えていいだろう。
【北京、ベルリン、ダブリン、リベリア】 → 【中国、ドイツ、英国、リベリア】
【束になって、輪になって】 → 【結束して、戦争になって】
【ピュアなハートが、夜空で弾け飛びそうに】 → 【無実の人々が、爆弾によって】
(http://www.asyura.com/0505/asia2/msg/275.html 『『阿修羅♪』より「君はPuffyの『アジアの純真』を素直に歌えるか?」を問うてみる』から引用)

これら憶測は著者の独り言に過ぎないことは言うまでもない。ダブリンがなぜ英国なのか、なぜロンドンではなくダブリンか、ということは一切説明がない。
しかしこうした読解の在り方を私は否定しないし、意味を追い求める作業が(例えそれがこじつけであっても)どれほど楽しい暇つぶしになるかを私は知っているからである。

しかしながら、こうして引用しておきながら、最初に断っておきたいのは、私がこれからする分析は、このような憶測とは一切相入れない全く別のものである。先に引用したシニフィエの憶測は、これからの分析に関して読者にとってなに一つとして手助けとはならないだろう。
私は作者が意図したことになど全く関心がない。
私はこれから詞が聞き手にもたらす音響的機能を注意して観察するのだ。


【母音性の尺度】

母音性というのは発声時の声道の広さをあらわす概念であり、空気がどのくらい自由に流れるかを定量的にあらわすものである。音声学では「聞こえ度(sonority)」とよぶ場合もある。
詞の中の大量の音素をつかまえてこれをあらわすのは少々大変な作業である。私はこれを、五線譜を用いてあらわした。
五線譜は五つの線とその間の空間、つまり九つの場所が用意されているので、母音性の尺度を九つの段階にわけて点で示した。五線の上に上がるほど母音性が強くなる。横は言うまでもなく時間である。それから五線譜にあらわした音素(これは一見音符に見えるが、縦はピッチではないことに注意)を語ごとに直線でつなげ、実際の音符の数と対応するように旗でまとめた(つまりすべての音素は一見八分音符のように見え、音符と同じ数だけ旗でまとめてある)。音素のしたにその発音記号を表記し、モーラごとに下線でまとめた。楽譜上の縦線は小節線である。これで母音性の尺度が折れ線グラフとなり、モーラと音符の対応、どの子音がどのくらい使用されているかが一目瞭然となる。
九つにわけた母音性の段階は次の通りである。

9、低母音[a,e,o]
8、高母音[i,u]
7、半母音[w,j]
6、流音[r]
5、鼻音[m,n,ŋ]
4、有声摩擦音[z, ʒ]
3、無声摩擦音[s,ʃ]
2、有声閉鎖音[b,d,g]
1、無声閉鎖音[p,t,k]

子音の連続する破擦音(つ)や撥音(ん)、促音(っ)などは、連続する音をそのまま表記した。
音符の数は聴覚上よりも楽譜を優先させたが、聴覚上明らかに音符を分割するべきである場合には分析の対象とした。
作詞家がかいた詞をそのまま音素に分解したが、発話の際に通常は発音されない音は対象外とした。


この分析からまず最初に目に付くのは、【A】(ペキン~)と【B】(ひらけドア~)の母音性の差である。この差は簡単に数値化することができる。最も母音性の高い低母音が9、最も母音性の低い無声閉鎖音が1であるから、1から9までの間の平均値を計算することができる。
一番の【A】の母音性の平均値を小節ごとに表すと、
5.7, 6.5, 5.3, 6.3, 6.6, 5.9, 5.0
である。【B】の母音性の平均値は
6.0, 7.0, 7.8, 7.0, 6.3, 7.7, 9.0
である(ただし最後の小節は低母音がひとつあるだけである)。
【B】は【A】に比べ、音符が倍の長さになるが、それと同時に母音性が急激に高くなっている。【A】全体の平均値は5.9、【B】全体の平均は7.2である。
この差は歴然である。これは比喩的に「声の解放」とよべるかもしれない。母音は閉鎖音に比べると明確な調音点がないので、もっぱらその発出を声帯に頼っている。子音性の高い(つまり母音性の低い)阻害音などはそれに比べ口内に明確な調音点をもち、無声音は声帯の振動を伴わないので、忠実なリズムを再現することが容易である。八分音符で構成された子音性の高い【A】が、【B】で四分音符になりタイトなリズムから解放されると同時に、母音性の高い発話が求められるのは自然だろう。母音性の尺度が空気の流れ安さを示す概念であることからわかるように、母音性が高くなればその分声量も豊かになる。
幼児の母音獲得と失語症の母音喪失という点から考えても、母音の解放は本能への回帰である。母音性の尺度は空気とともに心理的な自由度の尺度でもある。
【C】に入ると、【A】と【B】の中間にあたる母音度を形成している。ただし最後の二小節(【C''】)、「アクセス ラブ」の部分は重要な印象を持った響きである。「アクセス」という語は【A'】に出てくる。この語と「ラブ」は、母音の無声音化が起こるので、それぞれ[akses][rab]となる。音符で分割すると[ak.ses][rab]である。撥音と促音以外の子音で終わるモーラおよび音符は、曲全体でこの部分しか存在しない。これが心理的にどのような影響を与えるかということは容易にはいえないが、重要なのはCVC(Cは母音、Vは母音)の音符が八分音符で二つでてくる【A'】が、【C''】になり四分音符で三度連続し、曲が終わるという、この部分の「特殊性」である。音声学ではこれを《有標性》という。この最後の二小節は、極端に有標性の高い音韻構造の音符が続くといえる。CVCという音節(とくにCが阻害音の場合)は日本語という言語体系の中ですでに有標性が高いが、この曲の中で他の音節との差異によって、有標性はさらに高まるのだ。他の音節との対立関係によって、聴覚的印象は変化する。


【旋律とリズム】

詞の旋律とリズムを分析するにあたって、最初に用語を確認しておく必要があるだろう。まずモーラと音節である。モーラ(mora)は伝統的に「拍」と訳されることからわかるように、日本語のリズムを構成する単位であり、俳句などはすべてモーラによってリズムを構成する。古い日本語ではすべてのモーラがCV(Cが子音、Vが母音)であったが、現代日本語はCCVやC(促音など)も許容している。窪薗晴夫によると童謡の詞の三分の二がモーラを音符に当てはめている(『日本語の音声』岩波書店)。残りが音節である。モーラをここではMと表記する。
音節は英語のSyllableにあたる言葉で、母音を中心とした語のまとまりであり、英語圏ではこれがリズムの最小単位となる。日本語においても音節とリズムは深い関係にあり、鹿児島方言では音節とモーラが同一関係にあることが良く知られている。現代日本語では音節はモーラよりも大きな単位である。2モーラが1音節である場合(重母音や促音)など、二つの微妙な違いは重要である。音節はここではSと表記する。
音符(note)をN、その高さ(pitch)をPと表記した。
アクセントをAと表記するが、これは日本語のピッチアクセントのことであり、音程が他の部分に比べて高い部分のことである。急激に音程が下がるアクセント核は略さずにそのまま表記する。
a a=bはaとbが対等(同数、同一)であることをあらわし、a≠bはaとbが対等ではないことをあらわしている。


【A】のモーラと音符の関係を見てみると、
M=N, M>N, M と変化する。
アクセントと音程は「わになって」の部分以外は一致していない。(P≠A)
しかし【A'】では「キーになって」の部分もP≠Aである。
【A】~【A''】はモーラと音節が入り乱れている。「たばになって」は「なっ」で一音符なのでN=Sであり、「キーになって」は「キー」が二音符なのでN=Mである。この部分はモーラと音節が区別されているのでS≠Mである。
【B】に入ると、このすべての要素が結ばれる。最初の二小節「ひらけドア」の部分である。この部分は、
A=Pであり、
N=M=Sであり、モーラと音節の区別がない。
この「A=PかつN=M(=S)」を、《言語詞》と呼ぶ。これは、曲の旋律とリズムが、発話を模倣する形で詞を構成しているという意味であり、《音声詞》と対立する。
《音声詞》の定義は
「A≠PかつN≠M(もしくはN≠S)」
である。
【A】~【A''】は言語詞と音声詞の中間にあたる。
【B】の二小節の後はまたアクセントと音程の不一致に戻り、音楽的な展開部に入る「アジア」の部分でA=PかつN=M=Sになり、言語詞となる。

【C】ではまた言語詞になり、「よぞらで~」の二小節でアクセントから離れて、「かがやいている」でまた一致する。
【C'''】の最後の二小節(「アクセス ラブ」)は、すでに述べたように、CVCでありかつCが阻害音である唯一の部分(ただし「アクセス」は【A'】において出てくる)であり、母音の無声音化がおこっている。ここは[Ak.ses RAb](大文字は高い音程、「.」は音節の区切りをあらわす)となっており、アクセントに準じて語彙を判断すると、「アクセスラブ[ak.ses RAb]という複合語ではなく、「アクセス」「ラブ」という二つの語である。

旋律とアクセントの不一致が弁別的機能を持つ場合もある。この曲では一箇所にそれがみられる。
【B'】の「なみだながれてもー」である。【B】の「いまはもう」にあたる部分だが、それぞれ通常の発話における発音とアクセントを示すと
[I.ma.wa MO.o]
[Na.mi.da na.GA.re.te.mo(.o)]
である。しかし旋律は「もう」には一致するが「も(ー)」には不一致である。つまり【B】と【B'】は語のアクセントが違うにも関わらず、旋律では区別がつかない、よって聴覚上は「涙流れても」ではなく「涙流れてもう」と判断される。

言語詞が発話に準ずる(発話を模倣する)構造をもつことはすでに述べたが、詞の文学的な内容、つまりシニフィエはこの部分において特に重要だろう。言語詞は意味伝達において優れている。
【A】と【B】の対立を、音声素性によってわけてみる。
【A】−母音度、−言語詞
【B】+母音度、+言語詞

この変化は「音から声へ」、「響きから意味へ」の対立である。【A】は音声詞ではないが、A≠Pなのでシニフィエよりもシニフィアンが重要となる。語の意味ではなく音楽としての響きである。それが【B】に入ると「開けドア」という言葉の意味が明確に意識される。これが「響きから意味へ」である。言語詞は童謡に多くみられるが、曲中がすべて言語詞であった場合は対立関係が生じないので、音響的には展開の感じ方が弱い。そこがこの詞と童謡の違いである。
とはいえこの詞の場合もそれほど過剰な演出はない。【A】を完全な音声詞にすれば劇的な変化が生まれるだろうが、そうではない。子音も一貫性が感じられない。例えば閉鎖音の無声音と有声音の対立([p]ー[b]など)は、共感覚における神経心理学的法則では嗅覚や触覚、視覚などを想起させる([明るい]ー[暗い]など)。

最後に、歌い手(PUFFY)の声体について見落としてはならない部分をあげておく。私は1996年に発売されたシングルCDから分析したが、声体は、ライブ演奏やリミックスや他人からのカヴァーによって、無限に変化する可能性があることは忘れてはならない。
PUFFYの声体で特徴的なのは、「かな」への忠実さである。発話における発音よりも歌詞の「かな」を優先させているのが見受けられる。
例えば「ように」という部分では[jooni]ではなく[jouni]と発音している。これはボーカルのパーソナルな偏りなのか、もっとほかに理由があるのかはわからない(例えばレコーディングの際にフリガナのついた歌詞を見ながら歌唱したことが原因など)。

この分析ではもちろん私が気がつかなかったところや見過ごしているところが多々あるだろうことをお許し願いたい。


【分析の意味】

ここまでの分析から私たちは詞の中に何を見出したのか?私は容易に読者の失望を想像できる。分析によって今まで隠れていたものが可視化され、新たな解釈と体験を私たちに与えると、読者はお考えかもしれない。しかし私がいますでに行った分析からわかることは、おそらくほとんどの部分が、読者がすでに知っていたことにすぎない。読者が分析に求める「予想だにしなかった事実」を私は提示することができない。『アジアの純真』に隠されているかもしれない社会問題の隠喩を、私は暴き出すことができない。
私は読者の失望に僅かばかりの釈明をするべきだろう。それは、この分析の核心といえるようなものであるが、それを、私自身の言葉ではなく、随分前に物語の構造分析をしたロラン・バルトの引用によって代弁してもらいたい。

「このレベルの分析は、多くの場合むくわれることがありません。というのも、シークェンスは、わかりきったことという印象を与えるので、それを評定したところで無意味なように見えるからです。それゆえ、その無意味さそのものが、物語の正常さを構成しており、われわれがまだほとんど解明していないある非常に重要な問題の研究をうながす、ということをとにかくよく考えてみなければなりません。ある物語が読解可能であるのはなぜでしょうか?その限界はどのようなものでしょうか?ある物語が意味をもっているように見えるのは、どのようにしてであり、またなぜでしょうか?正常なシークェンス(たとえば、われわれの物語のシークェンス)を前にしたときは、つねに、行為の連鎖が、とっぴさによるか、またはひとつの項の欠如によって論理的にスキャンダラスなものとなる可能性を考えてみなければなりません。そうすることによって、読解可能なものの文法が浮かび上がってくるのです。」ロラン・バルト『物語の構造分析』( 『記号学の冒険』みすず書房 花輪光訳 172頁)

私は《音声詞学》と名付けた詞の分析の最も重要な問いをここで提示しなくてはならない。それは、「詞の音響的機能は何か』である。
ロマーン・ヤーコブソンとクロード・レヴィ=ストロースのボードレール分析が画期的だったのは、文学的な、詩的な分析家にとって最後の切り札を暴き出したことだ。それは、それをエクリチュールを文学たらしめる「何か」という切り札だが、古い批評家はそれを「何か」という状態のまま、大事に温めておいた。全能の神にも似た信仰でもって、芸術というものは究極的には分析不可能であるという自信が、彼らにはあった。であるから彼らはそれを「何か」のままに留めておきたかったのだ。しかしヤーコブソンとストロースはそれを全くもって冷徹な科学者のような精神で分析してみせた。それによって分析が成功したかはさて置いて、少なくともボードレール(もしくは芸術)が「神ではない」ということがわかったのだ。
しかしながら歌詞においては、こうした分析はむしろもっと早くから実践されるべきだった。音響という問題は音楽の問題そのものだからだ。言葉に旋律が乗るとき、音響的機能は完全に変化する。通常の詩の分析が歌詞において通用しないことはもはや明白なのだ。実のところ、この「詞の音響的機能は何か」という問いは、偉大なヤーコブソンから始まった。彼の講義録(『音と意味についての六章』みすず書房)は、音声詞学の始まりである。
私は詞の物語の分析を否定しない。しかし、物事には順序がある。詞の物語分析は、書かれてある文字通りにはいかない。なぜなら、ーーくどいようだがーー詞とは書かれたものではないからだ。そして非常にあたりまえでありながらいままでの分析で無視され続けた詞の本質ともう一度向き合わなければならない。詞とは、歌われるものなのだ。
『アジアの純真』でも、「涙流れても」と書かれた言葉が、歌われることによって「流れて、もう」と変化することはすでに述べた。批評家は、私がすでに行った分析を踏まえて、物語の分析に取り掛からなければならない。
すでに私の役目は終わった。ここから先は別の批評家によって引き継がれるべきだろう。

(完)

2012年8月1日
詞の音響分析 詞の音響分析 Reviewed by asahi on 3:07 Rating: 5

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